桜井博志は1984年、山口県の過疎地域で地元市場向けの安価な酒を造っていた家族経営の蔵、旭酒造を引き継いだ。売上は下滑を続け、年間1億円を下回るまでになった。そこへ、蔵の製造全体が頼りにしていた杜氏(最高責任醸造者)が辞め、生産を担うのは4人の従業員だけになった。桜井は後に、その後の決断ができたのは、会社が「失うものなど何もない負け組」だったからこそだと語っている。

彼は蔵を純米大吟醸へと舵取りした。純米大吟醸は、米をその重さのわずかな割合まで磨いて造る酒で、醸造が最も難しく、製造コストが最も高い区分である。当時、同社には安定した生産技術がなかった。醸造を機械制御の温度管理で標準化し、冬季だけでなく年間を通して製造し、小ロットで試行錯誤を重ねた。これにより品質は急速に向上し、価格は低く抑えられた。桜井は主力商品を獺祭と命名し、東京市場へ進出した。地元地域すら維持するのがやっとの蔵からの決定的な転換だった。

この賭けは実を結んだ。獺祭は海外における日本の高級酒ブームの顔となり、2022年には米国が酒の輸出先として他のすべての市場を抜いた。2017年、桜井はニューヨーク州ハイドパークに同社初の海外蔵を建設することを決めた。8000万ドルのこの計画は、予定していた30億円のほぼ3倍に膨らみ、パンデミックと水処理規制により4年遅れ、2023年に年間14万ケース(9リットル入りケース)相当の純米大吟醸の生産能力を備えて開業した。隣接するアメリカン・カリナリー・インスティテュートとの提携も結んだ。

獺祭は日本を代表する高級酒ブランドとなった。2023年までに旭酒造は年間約165億円を売り上げ、ニューヨークで8000万ドル、5万5000平方フィートの蔵を運営した。

売上が1億円を下回り、杜氏も去った状況で、安価な地元酒の造り手にとどまることは緩やかな清算を意味した。最もリスクの高い方向転換こそが合理的だった。

桜井は高級カテゴリーを意図的に選んだ。純米大吟醸は精密さが報われる分野であり、小さなチームが雇った杜氏の勘に頼るのではなく、機械とデータに組み込むことができた。

機械による温度管理は年間を通した醸造を可能にし、稼働率を高め、獺祭が高級酒を世界中のレストランにとって手の届く価格に設定することを可能にした。

ニューヨークへの進出は、ほぼ半年分の売上——年間売上165億円に対して約80億円——を現地化に投じるものだった。日本から輸出するのではなく、現地産の米でアメリカで醸造するというものだった。

桜井は競争相手を他の酒ブランドではなく、ワインとシャンパンと位置づけた。これにより、日本食レストランではなく一般的な米国のレストランにおける品質、価格、配置の基準が定まった。

失うものがないなら、自分を殺している組み合わせを捨てよ。桜井は最も難しいカテゴリーだけを残し、品質を機械に組み込んだ。4人の残兵を高級輸出品へと変えたのである。

ハイドパークの蔵は2023年10月に「獺祭ブルー」として開業した。日本から移った3人の熟練醸造者、精米施設、博物館を模した見学ツアー、そして輸入した山田錦からアーカンソー州産の米へ切り替える計画を備えていた。同社は今後数年間でニューヨークの生産量を10倍以上に増やすことを目指している。当時72歳だった桜井は妻とともに蔵の近くへ移り住み、獺祭ブルーは日本で造られる酒を超えるべきだと語った。準備が整う前に飛び込む姿勢は、1980年代に会社を救ったものと同じだった。

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出典

  1. Costs, woes rise, but Dassai sake maker persists in New York The Asahi Shimbun (Asia & Japan Watch) · asahi.com ·
  2. Dassai Blue Japanese sake brewery opens in Hyde Park Times Union (Hearst Newspapers) · timesunion.com ·