藤沢武夫は早くも1956年に、ホンダ技研工業が創業者たちの枠を超えて成長できるような組織構造を懸念していた。彼は取締役会を、若手経営者が発表し議論する訓練の場とし、また独立した本田技術研究所を推進することで、会社が本田宗一郎一人の天才に頼るのではなく、集団的な専門性に依拠するようにした。

移行は1970年4月に始まり、川島清、川島喜八郎、西田通弘、白井孝夫の4人の上級常務取締役が業務執行の主導権を握った。1971年のドルショックは、創業者たちが時代にどれほど遅れを取っていたかを露呈させ、取締役会は1972年4月、川島の下で変化に対応できる会社にするための新ホンダ計画(NHP)を立ち上げた。

1973年10月、会社創立25周年の際に、本田と藤沢は正式に引退し、川島が社長に就任した。退任を求められた際の本田の有名な返答——「お前がそう言うなら、今日にでも辞めてもいい」——は、藤沢が10年以上かけて設計した移行を締めくくるものだった。

新ホンダ計画は若手経営者を中心に意思決定を再構築し、会社は二人の創業者に依存することなくシビック時代を切り開いた。

藤沢は後継者の育成を創業者の最も重要な仕事と位置づけた。

若手取締役は、取締役が実際に何をするのかを学ぶため、あえてライン業務から外された。

ドルショックは、創業者たちがもはや時代についていけないことを証明した。

川島の新ホンダ計画は、引き継ぎの前に迅速な対応を制度化した。

創業者の本当の仕事は次に誰が来るかを決めることであり、10年にわたる育成は、圧力下での突然の引き継ぎに勝る。

ホンダは創業者後のリーダーシップの下で本格的に米国自動車市場に参入し、1973年に導入されたシビックがその先鋒となった。川島自身も55歳で退き、久米是志に社長職を譲ることで、師たちが実践したのと同じ規律を示した。

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出典

  1. Company Leaders Honda and Fujisawa Retire; Kawashima Assumes Presidency / 1973 Honda Global (official history) · global.honda
  2. Soichiro Honda ASME · asme.org ·